目次
ちゃんと前を向くために、
みんな孤独を共有して生きている
― 今作では、駅前の再開発によって景色が今も変わり続けている街の姿が映されています。戦後の闇市から発展し、昔ながらの商店街や呑み屋横丁が最近まで残っていた葛飾区の立石という街です。今回渡辺さんが演じられた銀次は、そんな自分の愛する街が変わっていく姿を、映像として記録に残していきますね。
渡辺 : 今回の映画の撮影中や上映が始まった今も、立石では取り壊しが進んでいるんですよね。僕が演じた銀次は、長く住んできた街がそうして変わっていくことを、嬉しくも寂しくも感じている青年です。そして、自分にできるかたちで記録に残そうとしている。
彼は映画監督を目指しているという設定でしたが、そのために撮っているというよりは、お世話になった街に向き合うことで、自分の愛情や存在意義を確認していたのかな、と思っていました。
― 銀次という役に、ご自身と重なる部分はありましたか?
渡辺 : 主人公の澪(松本穂香)と初めて会った時もそうですが、初対面の人に会うことを嬉しがるというか、幸福に思うところが似ているなと思いました。あまり人見知りせず、人との出会いを楽しむタイプというか。
― 確かに、街が変わっていくことに戸惑う登場人物たちの中でも、銀次の笑顔や前向きな姿は印象に残ります。渡辺さん自身、今年だけでも映画『見えない目撃者』『ブルーアワーにぶっ飛ばす』、そして今作と、役者として次々と映画に参加されていますが、新しい現場や人との出会いを楽しんでいらっしゃいると。
渡辺 : そうですね。僕自身も、人と出会うことは好きです。緊張するし恐縮もするんですけど、刺激になりますし、自分が何か作ったり表現したりする際に、その出会いやコミュニケーションが起点になることもあるので。その一方で、出会いの楽しみ方も、だんだん自分の中で変わってきたなという思いもあります。
― どのように変わってきたのでしょう?
渡辺 : 以前は、新しい人と出会って一緒に話したり盛り上がったりという時間そのものが楽しかったけど、最近は、「自分の考えてきたこと」と「相手の考えてきたこと」が出会ったら、どんな面白いものが作れるだろうということに興味があります。出会いによって起こる化学反応が見たいというか。
― 出会った人と意気投合するか以上に、出会いで生まれる表現に興味があるということでしょうか。
渡辺 : そうですね。役者の仕事って、結局はひとりで考えるべきことが多いなとも思うんです。たくさんの人と一緒に作ってはいるんだけど、作業自体は自分の中でしか起こらないというか、そういう個の集まりだと思っていて。だから、相手と気が合う合わないではなく、それぞれが出会った時に生まれる新しい化学反応が見たいんです。
― 以前インタビューで、渡辺さんは「役者は孤独な作業だ」とおっしゃっていましたね。今回共演された吉村界人さんも、以前PINTSCOPEのインタビューで、樹木希林さんから「表現者は個であるべき。最後までひとりなのよ」と言われたことが印象に残っている、とお話していました。
渡辺 : ほんと、そういうことなのかもしれないです。やっていく中で、だんだんそうなのかなと思うようになりました。人と出会って、その人の話に刺激や影響を受けても、そこから考えて実現していくのは自分ひとりだし、それは誰かと共有するものではない。だから孤独な感じがするのかもしれません。
― 新しい出会いがあっても、その人が答えを教えてくれるわけではなくて、結局は自分自身で見つけていくしかない、ということですね。
渡辺 : 今回の映画の中にも「しゃんとする」という言葉が出てくるんですけど、それって「ちゃんと生きる」ということですよね。ちゃんと生きることって、基本的に孤独だと思ってるんです。
それは役者だからとか、職業とか年齢とか関係ないことで。そして、ネガティブなものじゃなくて、孤独をみんなが抱えているからこそ、時には誰かに支えてほしいし、自分が支えになることもある。そういうことの繰り返しで、人はみんなで孤独を共有しあって生きているのかなと思います。
― 孤独を共有…確かに、そうかもしれません。
渡辺 : 街の景色が変わったり、別れや終わりがきたり、いろいろ環境は変化していくけど、新しい誰かと出会ったりすることで、「しゃんとしよう」とまた前を向くこともできる。今回の登場人物たちも孤独を抱えながらも、それぞれ自分自身を見つけている。だから、新しい場所で前に進み始めた、主人公の澪に会いに来る三沢(光石研)の表情がすごく好きで…。
そういう姿を見ると、「生きているということは、すごく明るいことだな」と思えてくるんです。僕は、そういう映画が好きですね。
映画に流れる「時間」との出会いが好き
― 以前、加藤諒さんのインタビューで、渡辺さんはとても映画がお好きで、寝る間も惜しんで映画を観ているとお聞きしました。
― 先ほど、「人は生きるのにみんな孤独」というお話がありましたが、そういう孤独を抱える中で、渡辺さんにとって映画に触れたり、映画を観たりする時間は、どのようなものですか?
渡辺 : 僕は…映画を観るのは、こうして誰かとお会いして1時間なり2時間なり話をするのと似ているなと思う時があります。人と話して刺激をもらうのと一緒で、2時間の中から、自分の知らなかった世界を教えてもらうことができる。映画っていうひとつの…出会いというか。
― 映画の中に描かれた様々な人生との出会い、という感覚でしょうか?
渡辺 : 人生との出会いというよりは、映画の中に流れている「時間」と出会っているという感じです。僕は、映画は科学が作ったものだと思っていて…
― 科学ですか?
渡辺 : 映画という技術は、人が科学の技術で作り出したものなので、絵画を見て思うこととは、ちょっと違う気がするんです。建築に近いというか。
カメラというものがもう科学的なものなので、それを使って撮影している時点で、どうしても理論が発生するし、人の手で作り出したものなんですよね。だから、人と人が出会った時ともまた少し違う…映画にしか流れていない時間との出会いだと思います。
― なるほど…情熱や発想だけでは作れないということですね。
渡辺 : そうですね…だんだん哲学的な話になってきましたね(笑)。なかなか一言では表せないし、もっと語れそうなので、いつか別の機会にまたゆっくりお答えしたいです。
― ぜひ、お聞きしたいです! では最後に、渡辺さんの心の1本の映画を教えてください。たくさんご覧になっているので、1本に絞るのは難しいと思うのですが…。
渡辺 : そうですね…では、今作のように街を描いた作品としてあげると、僕はエミール・クストリッツァ監督の映画が好きですね。旧ユーゴスラビア・サラエボ出身の監督なんですけど、いつも自分の故郷についての映画を撮っているんです。『アンダーグラウンド』(1995)や『黒猫・白猫』(1998)など、好きな作品がたくさんあります。
― 『アリゾナ・ドリーム』(1992)の撮影中にボスニア紛争が勃発し、自宅を略奪されたり、父親を亡くしたりした経験から、自分の国で起きていることを映画の中で伝え続けている監督ですね。あえてひとつタイトルを挙げるとしたら、どれでしょうか?
渡辺 : エミール・クストリッツァ監督の中では一番新しい、『オン・ザ・ミルキー・ロード』(2017)ですかね。実は今日着てきた私服のTシャツは『オン・ザ・ミルキー・ロード』の時に作られたクストリッツァのTシャツなんです。真っ白なのでわかりにくいんですけど…
― そうなんですね! 『オン・ザ・ミルキー・ロード』のどういったところが、印象に残っていますか?
渡辺 : 隣国と戦時中のとある国で、主人公の男が自分の花嫁を連れて逃避行をする、というシンプルな物語なんです。けれど、自分の暮らしの中では当たり前となったひとつひとつのことが、いかに大事かということを考えさせられる映画です。例えば、エミール・クストリッツァ監督自身が演じている主人公の男は、村から戦線に行っている兵士たちに、ミルクを配達するという仕事に就ているんですけど、戦争真っ只中の死と隣り合わせの状況で、周りで人が亡くなったとしても、その仕事を当たり前のように続けていくんです。
それが説教臭くなく、映画としてのユーモアを交えながら、ジプシー音楽に乗せてすごく痛快に描かれている。まさに「生きていくことは明るい」というか、生きる喜びに満ちていて、心が揺さぶられる時間なんです。とても大好きな映画ですね。