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彼女たちの人生を「証言」する
― 日本では最近、女子中学生が自宅で一人で出産し、産んだばかりの赤ちゃんを遺棄して逮捕されるというニュースが大きな関心を集めました。こうした事件は近年相次ぎ、その度に議論されますが、根本的な解決には至っていません。本作では、若くして妊娠・出産した5人の少女たちが、母子支援施設で共同生活を送り、戸惑い悩みながらも、それぞれの「愛」を選択していく姿が描かれています。

― なぜ、こうした若い母親たちを撮ろうと思われたのでしょうか。
リュック・ダルデンヌ(以下:リュック) : 正直なところ、なぜこのテーマを選んだのか、明確な理由は自分たちでもわかりません。実は当初、私たちは別のシナリオを書いていたんです。ある一人の少女が主人公で、彼女も若くして母親になり、 “赤ん坊とうまく関係性を築けない”という問題を抱えながら母子支援施設に通っているという設定でした。
執筆にあたってリサーチのために、ベルギーのリエージュ近郊にある施設を何度も訪ねました。10回は通ったと思います。そこで目にしたのは、少女たちが施設の職員から赤ん坊のお風呂の入れ方や寝かせ方を細かく教わっている、日常の光景でした。

リュック : 彼女たちや長く現場に携わる心理カウンセラーにも話を聞くうちに、私たちはその共同生活の風景に惹かれていったのです。
そこで、最初のシナリオを一度忘れて、複数の主人公による映画を撮ろうと考えました。施設で見たことを、そのまま「証言したい」という思いが湧き上がってきたのです。

― これまでのお二人の作品は、一人の主人公を近距離からカメラで捉え続けることが多く、今作のような「群像劇」は初めての試みとなりますね。
リュック : はい。これまで私たちがやったことのない方法でしたが、今回は挑戦するべきだと感じました。
― 劇中では、かつて自分のことを養子に出した母親に会いにいく少女、赤ん坊の父親であるパートナーが去ってしまい子育てに向き合えない少女、薬物依存と戦う少女など、さまざまな事情を抱えた5人の母親が登場します。

― 彼女たちは、あらゆる理由から家族を頼ることができず孤立していますが、施設で共に暮らす少女たちやスタッフといった「他者」が寄り添い、お互いをケアしていく姿が印象に残りました。
ジャン=ピエール・ダルデンヌ(以下:ジャン=ピエール) : 彼女たちは、決められた時間に食事を作って一緒に食べたり、お風呂に入ったりと、同じ規則のもとで生活をしています。しかし、生活を共にしていても、抱えている事情や歩んできた人生は一人ひとり全く異なります。それでもあの場所では、お互いに助け合いながら生きている。
彼女たちが、他人の助けを借りることで、自分なりの解決策を見つけだし、過酷な環境から抜け出していく姿も見ることができました。しかし同時に、彼女たち一人ひとりは、孤独の中にいました。その両面を描きたいと思ったのです。

― ベビーカーを押してひとり街角を歩く姿や、アパートで母親と口論をする場面など、カメラは彼女たちをドキュメンタリーのように追い続けています。長回しのシークエンスが積み重なっていくことで、観客も少女たちの孤独や不安を追体験しているような感覚になります。
ジャン=ピエール : 私たちが常に心がけていたのは、母子支援施設という場所を描くこと自体を到達点にしないこと。施設はあくまでも映画の一部であり、真の目的は、5人の少女たち「個々の人生」を描き出すことでした。群像劇にすることで、彼女たちの物語が全体を構成するための「パズルの一片」になってしまわないように、意識していました。

ジャン=ピエール : 誰かに会うため、あるいは赤ん坊と共に新しい生活を育んでいくため、それぞれが目的を持ってこの場所を出ていく。その姿を映画の中に描こうと。
そういう考えに至った背景には、溝口健二監督の『赤線地帯』(1956)という作品の存在があります。
― 『赤線地帯』は、売春防止法が審議されていた昭和30年代を舞台に、娼婦として吉原で働く5人の女性たちを描いた群像劇ですね。溝口監督の遺作でもあり、お二人がかねてよりお好きな映画として挙げていらっしゃる作品です。
ジャン=ピエール : これまで何度も観てきましたが、今回の映画を撮るにあたって改めて繰り返し観ました。『赤線地帯』では、娼婦たちがみんなで共同生活を送っていますが、彼女たちもまたそれぞれに異なる事情を抱えています。そして、その場所から出ることによって、彼女たちは自分自身の人生を知ることができるのです。

映画は観客を「動揺」させることはできる
― 何度も母子支援施設へ足を運び、そこでの体験を基に本作を紡がれたお二人ですが、以前、リアリズムについて「現実をそのままコピーするのではなく、自分たちが見つけた“何か”を表すことが必要だ」とおっしゃっていました。施設で目にした事実をフィクションに昇華していく過程で、本作にどのような「眼差し」を込めたのでしょうか。
リュック : フィクションには、現実とは違う次元の話を加えることができます。結末を変えることも、別の可能性を提示することもできるんですね。
私たちは、施設で出会った若くして苦境に立たされている母親たちを見て、彼女たちに「希望」を届けたいと思いました。

― それはつまり、彼女たちが置かれた現実が、それほどまでに厳しいものだと感じたということでしょうか?
リュック : いや、必ずしもそうではありません。自力で環境を抜け出すことに成功する人もいます。ただ、彼女たちの努力を無にしたくなかった。苦しみ、戦っている少女たちを前にして、映画の最後には解決につながる扉を開いてあげたい、何かしらの「ユートピア」を提示してあげたいという思いがありました。
― 貧困という社会的背景や、自身の母親との関係性など、十分な情緒的ケアを受けられなかった少女たちが、そうした連鎖を断ち切ろうと抗い、自分と赤ん坊の人生を選び取っていくラストシーンに確かな希望を感じました。

リュック : 私たちは常に登場人物を尊重しており、彼女たちは現実に生きている人たちと何ら変わりはないと考えています。だからこそ、その人生が押し潰されていくのを見るのはあまりに悲しい。
彼女たちに新しい形での幸せの可能性を示したいのです。そうすることで、観客も「別の生き方があったんだ」と、新たな可能性に気づくことができるのではないでしょうか。
― 私たち観客は、映画を観て、登場人物に共感し追体験することで、自分とは違う人生を生きる人々の苦悩や、社会が抱える問題を知ることができます。ベルギー本国では、お二人の映画『ロゼッタ』(1999)の反響が世論を動かし、青少年雇用に関する法律(ロゼッタ法)の成立を後押ししたこともありました。
― 映画が個人の心を動かし、ひいては社会を変えていく可能性について、どのようにお考えですか。
ジャン=ピエール : 私たち自身は、映画人として謙虚であるべきだといつも考えています。もし映画だけで世の中を変えることができるのであれば、世界はどんどん良い方向にいっているはずですが、現実を見るとそうなっていないことは明白です。
ただ、映画が人々の心を揺さぶることは可能だと信じています。それまで知らなかった事実を、単なる情報としてではなく、登場人物たちの冒険や道程を通して、自問しながら知ることができますから。
― 自分に置き換えて考えることで、それが自分と地続きの世界であると認識できるようになるのですね。

ジャン=ピエール : はい。ですから、映画は観客を「動揺」させることはできる。映画館を出る時には、入る前とは少し違う人になっている──そういう可能性は確かに存在します。
私たちが映画を撮るうえで最も大切にしているのは「人間性」です。決して、何かを一方的に押し付けてはいけない。そういう映画は、最終的にカオスを招くだけです。ただ、映画には“もう一つの可能性”を提案する力がある。たとえ儚く脆い人生であったとしても、自分の人生やこの世界には、まだ選べる道があるのだと。それを見せることが、映画を含むすべての芸術にはできると考えているんです。

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の「心の一本」の映画
― 最後に「心の一本」の映画についてお聞きしたいのですが、お二人は、近年共同プロデューサーとして、若手監督のサポートにも尽力されていらっしゃいます。注目の若手監督や最近ご覧になって心動かされた作品がありましたら、ぜひ教えてください。
リュック : ローラ・ワンデル監督の『アダムの原罪』(2025)ですね。
― ローラ・ワンデル監督はベルギーの映画監督で、長編デビュー作『Playground/校庭』(2021)がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞していますね。二作目となる『アダムの原罪』は、小児科病棟を舞台にしたヒューマンサスペンスとのことですが、お二人もプロデューサーとして、製作に名を連ねていらっしゃいます。
リュック : そうですね。私たちの製作会社でプロデュースを手がけています。
― 日本でも6月に公開が予定されており、とても楽しみです。お二人のプロデュース作品を通して、ベルギー映画の次世代を担う才能に出会うことができる観客も多くいると思います。
リュック : それは、私たちの製作会社の代表である、デルフィーヌ・トムソンの尽力のおかげです。プロデューサーとしての私たちの役割は、準備段階でシナリオを読んだり、編集に立ち会って意見を交わしたり、完成したバージョンを確認したりすること。
ローラ・ワンデルは、若く、とても将来性のある作家なので、公開されたら、ぜひ多くの人に観てほしいですね。





