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cineca 土谷未央のバースデーケーキショップ vol.5

異国の味のバースデーケーキ
『83歳のやさしいスパイ』

cineca’s バースデーケーキショップ
映画を題材に物語性のある菓子を制作する菓子作家「cineca」の土谷未央(つちや・みお)さんが、独自の視点でセレクトし、誰にでもある誕生日という特別な日に、様々な意味をもって映画に登場するバースデーケーキを紹介します。「味わってみたい!」と思ったら、文末のお店情報をチェックしてみてください。
菓子作家
土谷未央
Mio Tsuchiya
東京都生まれ。グラフィックデザインの職に就いたのちに都内製菓学校で製菓を学ぶ。2012年に映画をきっかけに物語性のある菓子を制作する「cineca」を創める。製菓において、日常や風景の観察による気づきを菓子の世界に落とし込む手法をオリジナルのものとする。2017年頃からは企画や菓子監修、アートワーク制作、執筆業なども手がける。2022年春には、間が表象する造形、概念に焦点をあてた「あわいもん」を立ち上げ、店主として製菓と店づくりを行う。著書に『She watches films. She tastes films.』(aptp books)、『空気のお菓子』(BON BOOK)。
Instagram: @cineca

夕刻の誕生日

cineca 土谷未央のバースデーケーキショップ

「人間は生きるためにはたくさんの準備をするのに、死ぬための準備はしないものね」

少し前、ある映画でこんな台詞を聞いた。
(なんの映画だったか思い出せない)

学校、習い事、留学等々。人は、幼い頃からずっと、どう生きるかへの準備を重ねて生きている。はて、死ぬための準備と言えるものはなんだろう。もしかしたら「老人ホーム」のような場所は死ぬための準備の場所、と言えるのかもしれない。

“高齢男性1名募集”
“80歳から90歳の退職者”

ある日、一風変わった広告が新聞に出されて、多くの高齢男性が面接に集った。
面接場所は探偵事務所。とある老人ホームに入所している女性の娘が、母が虐待を受けていることを疑って、探偵事務所に捜査を依頼したらしい。あやしまれずに捜査するために、ターゲットと同じくらいの年齢の男性がホームへ潜入し、内情を報告しようという目論見だ。

面接を経て、採用されたのは83歳の紳士な男性、セルヒオ。妻を亡くしてからの張り合いのない生活に終止符を打ちたいという想いもあって、探偵への意気込みは十分。隠しカメラを仕込んだ眼鏡を着用し、慣れないスマホを片手に、老人ホームへいざ入所。ターゲットを見つけるために、さまざまな女性との会話を重ねていくセルヒオは、いつの間にやらホームの人気者となっていく。

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映画『83歳のやさしいスパイ』は南米チリを舞台にした“探偵もの”のドキュメンタリー作品だ。ドキュメンタリー作品というと、歴史的な事件や政界のスキャンダル等を取り上げるものが多いが、この映画は、小さな世界の片隅に生きる人々の日常を「探偵」という職業を通して映し出す作品だ。
ただし、この映画の目的は、結果の報告を知ることをではない。身近な人、家族を知るために他人を介在させるという行為への疑問を投げかけ、なぜ調査依頼がされるのかという、相互理解の欠如の背景に迫った作品にもなっている。

この映画を観て、私ははじめて老人ホームという場所を覗いた気がした。これまで身近に入所した家族がいないし、そういった場所について取り上げた映画も記憶の限り観たことがない。改めて、老人ホームや高齢者の暮らしは、社会からは見えにくい存在なのかもしれないということも実感させられた。

セルヒオがホームで人気者となった背景には、人の話を聞くという行為がある。隣に座って話を聞き、相手と向き合って会話をするというコミュニケーションの不足が、老人ホームに暮らす人々の生活には溢れていて、その孤独を埋める存在としてセルヒオが居るようにも見える。面会に訪れる家族がいない人も多い中、彼らの孤独や悲しみは想像以上に大きいのだと推測する。

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ある日、セルヒオの84歳の誕生日を祝うパーティーが開かれた。風船や花が壁にも天井にも華やかに散りばめられ、白いクリームの上に真っ赤なチェリーを飾った少し大きめのケーキを囲むように入所者が一部屋に集まる。カットされたケーキを頬張るシーンは描かれないが、もしかしたら、ひさしぶりに口にしたクリームに、隣の人と微笑みあった人もいるかもしれない。座りながらも手を叩いたり歌を歌ったりと、多くの人がこの一日を楽しんだことは間違いない。その数日後に、入所者の女性の一人が亡くなって、今度は葬式が執り行われた。彼女が残した自作の美しい詩が朗読される静かな時間が流れる。故人を見送る人々の目には少しの寂しさが漂うが、死という訪問者を受け入れるふくふくとした余裕も顔を覗かせる。

cineca 土谷未央のバースデーケーキショップ

誕生日会と葬式。人の誕生を悦ぶ日と、人の死を悼む日。対極な会集が日常的に繰り返される日々は老人ホームならではの風景だろう。それは、生と死が隣り合って存在することを確かめるようでもあって、とても人生的な風景だとも私は感じた。
どうしても人は、死を遠いものとして生きてしまうけれども、死があるからこそ生はより悦ばしく、尊いものでもあるはずだ。突然にやってくる悲しみに敏感になりすぎずに、すぐそばへ静かに近づいてくる幸福があることも見逃してはいけない。『83歳のやさしいスパイ』で描かれる人間模様を見て、そんなことを思うのだ。

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おまけの話

日本は、いろんな国のお菓子が楽しめることが最高だなあって思う。お菓子屋の国籍の幅はあれよあれよと広がり、フランス、ドイツ、オーストリア、スウェーデン、イタリア、スペイン、ロシア、インド、台湾等々、今では各国の“郷土菓子”を作るお店も随分と増えた。
それでも、本物の味というのは、その土地に行かないと味わえないものかもしれない。日本人の腕にかかってしまえば、どれも日本人好みの美味しいお菓子に変身してしまうから、日本で現地の味が楽しめるお店は貴重なものだ。

数年前に訪れた「deli’s ケーキ&コーヒー」は、ペルー人のご夫婦が経営するペルーの味が楽しめるお店。シロップを含んだしっとり甘いチョコレートスポンジとクリームの重なりが不思議とあとを引く「トルタ・セルバ・ネグラ」をはじめ、色々なケーキが並ぶ他、ハンバーガーなんかの軽食があるのも嬉しい。どれも、日本人が作った味からは少し遠い、異国の味がするのがこのお店の魅力だ。『83歳のやさしいスパイ』はチリが舞台の映画。チリのケーキを提供するお店をまだ日本で見つけられていないけれど、隣国ペルーのケーキで、ちょっと南米の気分に心寄せてみませんか。

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◯今回ご紹介したバースデーケーキ:
「deli’s ケーキ&コーヒー」のトルタ・セルバ・ネグラ

cineca 土谷未央のバースデーケーキショップ
「トルタ・セルバ・ネグラ」
¥3,100+税(税込¥3,348)/20cmホール
南米・ペルーのケーキ「トルタ・セルバ・ネグラ」は、チョコレートのスポンジに生クリームと桃がサンドされ、表面にキャラメルクリーム、生クリームとチェリーがデコレーションされている。一見濃厚そうだが、日本のお客さんの口に合うよう甘さ控えめで作られている。
サイズは他に15cm(¥2,400+税)、18cm(¥2,600+税)と全部で3種類あり、ホールケーキを購入する際は3日前までに注文が必要。また、カットしたもの(¥360+税/ピース)も購入可能。
ペルー出身のご夫婦が営むお店では、様々なペルーのケーキやスイーツの他、ハンバーガーなども楽しめる。

◯店舗情報

deli's ケーキ&コーヒー
deli’s ケーキ&コーヒー
deli's ケーキ&コーヒー
店内
▽「deli’s ケーキ&コーヒー」
住所:神奈川県愛甲郡愛川町中津963-1
電話番号:046-280-6725
営業時間:
月・水・木・金 16:00〜21:00
土 12:00〜21:30
日 12:00〜21:00
定休日:火曜日

※2022年12月時点での情報です。
※新型コロナウイルス感染拡大により、営業時間・定休日が記載と異なる場合がございます。ご来店時は事前に店舗にご確認ください。

◯『83歳のやさしいスパイ』をAmazon Prime Videoで観る【30日間無料】

FEATURED FILM
監督・脚本:マイテ・アルベルディ
出演:セルヒオ・チャミー、ロムロ・エイトケン
『007』、『ミッション:インポッシブル』、『キングスマン』…。映画の歴史でスパイを題材にした名作は数あれど、それらとはまったく違う、アクションとは無縁の、世界でいちばん“やさしい”スパイ映画が誕生した。本作で驚くべき活躍を見せる主人公は、83歳のごく普通の男性セルヒオ。とある老人ホームの入居者が虐待されているのではないかという疑惑があり、そのターゲットの様子を密かに克明に報告する、というのが彼に与えられたミッションだ。携帯電話の扱いひとつ不慣れなセルヒオが、眼鏡型の隠しカメラを駆使し、暗号を使って老人ホームでの潜入捜査を繰り広げる様子に観客はハラハラしっぱなし。妻を亡くした悲しみの中にある彼は、傷ついている人を放っておけない心優しい性格で、調査を行うかたわら、いつしか悩み多き入居者たちの良き相談相手となってしまう…。セルヒオは無事にミッションをやり遂げることが出来るのか!? そして彼が導き出したある真実とは?
PROFILE
菓子作家
土谷未央
Mio Tsuchiya
東京都生まれ。グラフィックデザインの職に就いたのちに都内製菓学校で製菓を学ぶ。2012年に映画をきっかけに物語性のある菓子を制作する「cineca」を創める。製菓において、日常や風景の観察による気づきを菓子の世界に落とし込む手法をオリジナルのものとする。2017年頃からは企画や菓子監修、アートワーク制作、執筆業なども手がける。2022年春には、間が表象する造形、概念に焦点をあてた「あわいもん」を立ち上げ、店主として製菓と店づくりを行う。著書に『She watches films. She tastes films.』(aptp books)、『空気のお菓子』(BON BOOK)。
Instagram: @cineca
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