目次
わたし達の生きる世界で
差別は行われている『砂の器』
私が小学校の卒業アルバムに書いた将来の夢は、「差別を解消する仕事に就きたい」でした。ほとんど友達もいなくて本ばかり読んでいた私は、そのころ島崎藤村の『破戒』に感化されていたのです。被差別部落の出であることを隠して生きる主人公が葛藤し、やがて告白にいたるまでを描いた『破戒』は、子ども心にも衝撃的でした。それに、少し背伸びしたことを書いて褒められたいという気持ちもあったと思います。でも実際のところ、当時の私は差別のなんたるかなど理解してはいませんでした。
松本清張の原作を映画化した『砂の器』(1974年)を初めて観たのは、15年ほど前のことです。当時勤めていた会社の先輩が「これは観るべきだ」と貸してくれた数本のDVDのうちの1本でした。その数年前にスペシャルドラマ化されていたこともあり、すでに大体のあらすじは知っていたはずなのに、それはそれは大きな衝撃を受けたのをハッキリと覚えています。
差別について考える時、「世の中には理不尽に他人を見下すような酷い人間がいて、彼らが差別を生み出しているのだ」と、つい自分とは別の世界の問題だと考えてしまいがちです。しかし、それは違います。差別意識を持たない人間など存在しません。『砂の器』の最後の40分間で、私は差別の重みについて、自分がいかに無自覚だったのかを思い知りました。
『砂の器』は殺人事件を巡るミステリーです。『砂の器』の冒頭から2/3は、ある殺人事件をしつこく捜査し続ける刑事・今西を中心とした謎解きパートになっています。私を打ちのめしたのは、『砂の器』の終わり1/3、約40分に渡る今西による事件説明と、事件の被疑者となる男・和賀英良の過去の回想で構成された『宿命』パートでした。このパートは、新進気鋭の作曲家兼ピアニストである和賀が作曲した交響曲『宿命』と共に進行していきます。
『宿命』の演奏に乗せて映し出されるのは、日本中を旅する親子の姿です。やせ細って老人のような父親と、まだ6~7歳ほどの男の子。行く先々で門前払いを受け、徹底的に蔑まれながら、親子は何とか生き延びていきます。住み慣れた村を出て、親子が旅を続ける理由はひとつ。父親がハンセン病に冒されていたからでした。
ハンセン病は皮膚と末梢神経を主な病変とする抗酸菌感染症。映画『ベン・ハー』(1959年)で、主人公の母親と妹がハンセン病のために「死の谷」に隔離されていたことからもわかるように、世界中で長らく差別・偏見の対象となってきた病気です。既に薬と治療法が確立して完治する病なのですが、周囲の無理解から適切な治療を受けることができず、親子は迫害の旅を続けるしかありませんでした。『砂の器』のストーリーの軸は殺人ミステリーですが、その裏にある大きなテーマは、理不尽な差別に苦しんで引き裂かれた親子の絆なのです。親子の旅は一切のセリフなく淡々と描かれ、次第に周囲の季節は移ろいゆきます。そこで描かれる親子の仲睦まじく愛情あふれる姿は、私を打ちのめしました。私と何ら変わらない人間が、ただ生きているだけで差別される。そんな理不尽があっていいのか! あまりにリアルな2人の演技は、初めて私に被差別者の苦しみを実感させてくれたのです。
冬。降りしきる雪を避けるため、親子は寺の軒下で身を寄せ合います。春。桜が咲き誇る道を行く親子。村の少年たちにいじめられた息子を、病身の父親は必死でかばいました。梅雨、まだ小さい息子は木陰で火をくべて食事を用意し、弱り切った父親に食べさせながら2人はじゃれあいます。そして夏。村から無理やり追い出されそうになる父親をかばって、警官の背中を攻撃した息子は、小さな崖を転がり落ちてしまいます。額から血を流して崖の上を睨みつける息子の元に、父親は駆け寄り抱きしめました。理不尽さに怒りを滲ませる子どもの悲しみと、何よりも息子を大事に思っている父親との絆が強く表現された名シーンです。
親子の旅は足掛け10か月もかけて撮影されたのだそうです。段々と弱りきって細くなる父親の肉体、少しずつ成長して目に力を宿していく小さい息子。四季折々の日本の風景を背景に、装束に身を固めた親子の旅は続きます。ハンセン病に苦しむ父親を演じた加藤嘉は、出演当時およそ60歳だったはずですが、もはや年齢など超越した風貌で、演技だとはとても思えない真実味を全身から放っています。
小学生の私は卒業文集で、部落差別や人種差別の撤廃を念頭に作文を書きましたが、実際のところ頭のどこかでは、差別を自分が生きる世界とは別の現象だと思っていたような気がします。しかし、『砂の器』で旅する親子は、私が知っている親子の姿と何ら変わりがありませんでした。ただ、両親が私を愛するように息子を愛し、私が両親を愛するように父親を愛して慎ましく暮らしたかっただけなのに、それすらも許されない。私は『砂の器』を観て初めて、差別は別世界の社会現象などではないこと、そして、差別がいかに恐ろしく、人生に暗い影を落とすものなのかを知りました。被差別者として苦しみ、結局引き裂かれてしまった親子は、それぞれ終盤で心の叫びを上げます。
すっかり身体が弱ってしまった父と子は、島根のある村で正義感の強い警官に保護されます。父親は病院に送られ、息子は警官の子どもとして育てられることになりました。しかし、ほどなくして息子は脱走し、戸籍を変えて和賀英良と名乗るようになります。音楽家として成功しつつある彼は、親子を救ってくれた恩人である警官を殺します。出自をバラすと脅されたわけでも、金銭を要求されたわけでもありません。それなのに警官は殺されてしまいました。映画の中で和賀の弁明は一切描かれず、今西の推測が語られるだけです。痩せ衰えた父親の前に、今西は和賀の写真を差し出しますが、最後まで頑なに「こんな人は知らない」と言い張ります。
『宿命』は、唯一絶対の愛を与えてくれた父親をも断ち切って生きてきた和賀が、人生のすべてを込めて作曲した交響曲です。和賀は『宿命』に父親への愛をぶつけましたが、父親はその想いを「こんな人、知らねえ!」という叫びに込めました。その声は、差別によって狂わされた親子の『宿命』の音色の中に響き渡って消えていきます。これほど強く哀しい愛情表現があるでしょうか。
これまで『砂の器』を何度も観てきましたが、親子が移ろう四季の中で身を寄せ合い旅する姿、そして『宿命』の中に響き渡る2人の声ならぬ声に、必ずボロボロと涙が出てきてしまいます。私にとって『砂の器』は、知らなかった差別の残酷さを心に刻み付けてくれた、傑作中の傑作です。
- 17歳のエリオは、両親の「手放す愛」で、人を心から愛する喜びを知る。『君の名前で僕を呼んで』
- “未来”を「知る」ことは不幸ではない。 限りある“今”という時間を認識するきっかけとなる。『メッセージ』
- 衝動的で暴力的で滅茶苦茶。それこそが「思春期」。無軌道な子供達が、大人たちを軽やかに超えていく。 『台風クラブ』
- 家族を「喪失」から「再生」に導いた 「不在」の息子の姿 『息子の部屋』
- 「メリークリスマス、ロレンス」 ハラとロレンスの絶対的違いを超えた人間愛『戦場のメリークリスマス』
- 「必要なのは愛だ」 人間は愛と赦しで変わることができる 『スリー・ビルボード』
- 責任をあいまいにする、おとなたちへ『生きる』
- 「無力な女性」のラベルを引き剥がすクラリスのヒロイン像と、レクターの慧眼『羊たちの沈黙』
- スカーレットはいじわるキャラ?女性が自分で人生を決め、自分の力で生き抜くということ『風と共に去りぬ』
- 神々しいほど美しい! 人間と物の怪を「静と動」で魅せる坂東玉三郎の女形『夜叉ヶ池』
- 憧れの人に認められたい。秀吉と利休、強い羨望が憎しみへと変わるとき『利休』
- 不透明な未来に向けて選択するために、葛藤を繰り返しつづける。『日本のいちばん長い日』
- 真田広之と田中泯。役者の身体を通して「生」を取り戻す『たそがれ清兵衛』
- ひとりぼっちでも、孤独ではないのが“家族”。何よりもあなたの幸せを願う『秋刀魚の味』
- 「推し」に捧げた我が生涯に、 一片の悔いなし。情熱を傾けるものを見つけた人の強さは、輝かしい『残菊物語』
- 夫婦の極限状態がぶつかる、生々しい修羅場!不倫による裏切りで、人はどう壊れていくのか?『死の棘』
- 「みんな我慢しているから、あなたも我慢するべき」という同調圧力。“姥捨て山”のある社会にしないために『楢山節考』
- 「女性同士の対立」に見せかけた「確かな連帯」を描く『疑惑』
- “毒親”になってはいないか? 弱い者を支配してしまう危険性を問う『この子の七つのお祝いに』
- なぜ許されない!ただ生きて、愛しただけなのに。差別は、私の生きる世界で行われている『砂の器』
- ホラーよりも怖い!? 究極の恐怖が一人の父親を襲う『震える舌』
- 生きるか死ぬかを迫られたとき、 暴力にどう向き合うのか? 塚本晋也『野火』『斬、』
- 理解できない!それなのに、危険な存在に惹かれてしまう怖さって?『復讐するは我にあり』
- 大人になる前の一瞬の輝き。 『御法度』松田龍平演じる加納惣三郎の強烈な魅力とは?