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嗚呼、こんなにも魅惑的な登場人物たち! 第9回

夫婦の極限状態がぶつかる、生々しい修羅場!不倫による裏切りで、人はどう壊れていくのか?『死の棘』

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心から信じていた人に裏切られたとき、人間はどんな風になるのでしょうか? 浮気や不倫を描いた映画は世の中に数多くありますが、禁断の恋をロマンチックに描いていたり、裏切られた側が怒り狂って相手を成敗したり、夫婦が一度は失われた絆を取り戻したりするストーリーが多いですよね。今回取り上げる映画『死の棘』も不倫を描いていますが、本作では、裏切りによる傷が人間をどういう風に壊していくのか……それだけがひたすら描かれているのです。

島尾敏雄の小説を、小栗康平監督が映画化された『死の棘』(1990年)は、夫から妻への「お前、どうしても死ぬつもり?」という衝撃的なセリフで幕を開けます。夫の浮気が発覚した直後らしく、妻が暴れたせいか室内はめちゃくちゃになっています。疲れ切った表情の夫・トシオ(岸部一徳)と、怖いくらい無表情の妻・ミホ(松坂慶子)。淡々とトシオを責めるミホと、弁明を重ねるトシオ。2人の背後には幼い2人の子どもたちが並んで寝ています。

本作の原作『死の棘』は、島尾敏雄が自身の体験を元に綴った小説です。太平洋戦争末期、特攻隊の一員として奄美大島に駐屯していたトシオと島の娘ミホは恋に落ち、終戦後に結婚して2人の子どもをもうけます。夫婦は平凡で幸せな日々を送っていましたが、ある日トシオの日記から浮気が発覚。ミホはトシオを繰り返し責め立て、やがて精神のバランスを崩していきます。夫婦の壮絶な葛藤と再生が執拗に描かれている傑作として知られる名作です。

松坂慶子演じるミホと、岸辺一徳演じるトシオの芝居には起伏がほとんどありません。棒読みといってもいいほど平坦なセリフ回しに、ほぼ変わらない表情。ひたすら淡々と進んでいくからこそ、ときどき巻き起こる衝突が異常性を帯びて見えます。

穏やかだったかと思えば、ふとした瞬間にトシオを責めるミホ。終わりのない不毛な衝突に疲弊していくトシオ。夫に裏切られたことで、憎悪、嫉妬、愛情の狭間でがんじがらめになっていくミホの姿は非常に痛々しく、絶え間なく真綿で首を絞められているような、静かな重苦しさを観る者に与え続けます。

その劇中、ギョッとするような修羅場が3回ほど起こります。そのひとつが、夫婦の極限状態を表した異様な自殺合戦です。比較的平和な時間を家族で過ごしていたお正月。電車のホームでミホはトシオの浮気相手を見かけた気がして取り乱します。その夜、再びミホから責められたトシオは、「いつまでもそんなことを言ってるんだったら勝手にしろ!肺炎になってやる!」と着物を脱ぎます。ミホは「そんな嫌がらせをするのなら、ついでに真っ裸になれ!」とトシオをさらに脱がせ、「ようし、そんなら私もそうしてやる!」と自分も半裸になって対峙します。

そのままトシオは首を吊ろうとしてミホともみ合いになり、さらには2人で競い合うように首を吊ろうとし始めます。結局、ミホが突然の腹痛に襲われたことで壮絶な喧嘩は終わるのですが、半裸の男女が無我夢中で我先に首を吊ろうとする様子は異様でした。そもそもその情景は「そんなやり方じゃ絶対に死ねないだろう」というレベルのお粗末さで、滑稽にすら感じるものでした。本気で死のうとしているようにはとても見えません。では一体、この茶番は何なのでしょうか?

夫婦の心を蝕んでいるのは、それぞれに異なる感情です。故郷を捨ててトシオに人生を捧げてきたミホは、トシオの裏切りをどうしても許すことができません。何度謝られても、もうしないと約束されても、すでに起きてしまった事実を覆すことはできないからです。だから、ミホは何度も何度もトシオを追い詰めてしまいます。トシオへの愛情や家族への想いは消えない、でもトシオの罪を忘れることもできない。ミホは自分の中のアンビバレントな感情に常に引き裂かれているような状態なのだと思います。

一方で、トシオが苦しむのはミホに決して許してもらえないからです。何度謝っても、何度誓いを立てても、やってしまった罪は消えません。言い訳しても、謝っても、労りの言葉をかけても責め立てられるという地獄。ミホに変わってもらうしかないけれど、トシオにはミホの傍にいることしかできません。トシオにできる手立ては何もないのです。

本作が映し出すのは、静かに激しく苦しみ続ける人間のリアルです。嵐のように巻き起こる感情を内に秘めながら、抑えた表情で淡々とくるしむ松坂慶子は悲痛ですが、同時にとても美しくも感じます。どんどん覇気がなくなり小さくなっていくトシオと、病んでいくにつれて凄みと存在感を増していくミホ。死の淵でなんとか踏ん張りながら、生にしがみつこうとする人間の業をこれほど執拗に描き切った映画を、私は他に知りません。

そしてもうひとつ。本作の被害者はミホだけではないという点を言い添えて終わりたいと思います。二人の首つり合戦のシーン、それまでずっと室内から縁側に向かって映し出されていた2人の喧嘩が終わると、カメラは縁側から室内を映す逆のアングルに切り替わります。朝の光の中でうずくまるミホと立ち尽くすトシオの向こうには、布団が敷かれていました。そして、布団から顔を出していた息子の伸一が目を開けて立ち上がり、「こんにちは。朝ですよ」と言葉を発したのです。

私は唖然としました。そして、冒頭のシーンからずっと同じだったことを思い出しました。『死の棘』に登場する子どもたちのセリフは決して多くはありません。でも、子どもたちは常に画面の中にいるか、その気配が感じられるようになっています。まだ幼いとはいえ、子どもたちが両親の異変に気付かないはずはありません。こんなに残酷なことがあっていいのでしょうか?

裏切りは、ミホの精神を壊しただけでなく、子どもたちも犠牲にしました。ひとつの裏切りが、いかに他者を苦しめ苛んでいくのか。『死の棘』は恐ろしく子細にその過程を描写している作品です。きっとあなたも本作を観たら、「自分のとった行動が、大切な人を裏切ることになっていないか」と自らを省みたくなるかもしれないですよ。

BACK NUMBER
FEATURED FILM
監督・脚本:小栗康平
原作:島尾敏雄
出演者:松坂慶子、岸部一徳、木内みどり
ミホとトシオは結婚10年の夫婦。第二次大戦末期の1944年、二人は奄美大島・加計呂麻島で出会った。トシオは海軍震洋特別攻撃隊の隊長として駐屯し、島の娘ミホと恋におちた。死を予告されている青年と出撃の時には自決して共に死のうと決意していた娘との、それは神話のような恋だった。しかし、発動命令がおりたまま敗戦を迎え、死への出発は訪れなかったのだ。そして現在、二人の子供の両親となったミホとトシオの間に破綻がくる...。
PROFILE
映画・演劇ライター
八巻綾
Aya Yamaki
映画・演劇ライター。テレビ局にてミュージカル『フル・モンティ』や展覧会『ティム・バートン展』など、舞台・展覧会を中心としたイベントプロデューサーとして勤務した後、退職して関西に移住。八巻綾またはumisodachiの名前で映画・演劇レビューを中心にライター活動を開始。WEBサイト『めがね新聞』にてコラム【めがねと映画と舞台と】を連載中。
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