今年の夏も、お盆に故郷へ帰る友人夫婦に頼まれて、猫と留守番をした。去年に引き続き二度目なので、クロマル(猫の名前)ともすぐに打ち解けて仲良く寝食を共にした。
ただ去年と違って、私には演じるべき役もなく、覚えるべき台詞もなかった。朝起きるとまず太極拳をして身体をほぐし、日本舞踊を数曲踊り、本を読み、残りの時間は自由研究(図書館でいろんな植物の種や草花の本を借りてノートに写したり)をし、夕方になったら買物に出かけ、ご飯を作って食べる……という終わりの来ない夏休みのような日々を過ごしていた。
一方、クロマルはだいたい昼間は涼しいところで伸びていて、目を覚ますとゴロゴロと喉を鳴らして餌をねだり、お腹がふくれるとまた横になる……という、つまり猫は去年と何一つ変わらなかった。
この留守番中、私はロビン・ウィリアムズの映画をいくつか借りて観た。彼の出演作の中で何と言っても好きなのは、小学生のときに仲良しの友達に誘われて映画館に観に行った『ミセス・ダウト』。それから二十代のころに感動して繰り返し観た『ガープの世界』だ。
今回はまだ観たことのない映画を借りたのだけど、その中に『パッチ・アダムス』という作品があった。1998年公開の映画で、主人公のモデルになったパッチ・アダムスさんはピエロの恰好をしながら患者をケアしつづける実在のお医者さんで、いまもまだ生きている。
映画は、主人公が自殺未遂の末に精神病院へ入るところから始まった(彼は若いころに世の中に絶望し、夢も希望も持てなくて「もう死んでしまおう」と自殺を繰り返したという)。その入院した精神病院で人生の転機が訪れる。彼はそこで、自分よりももっと深い孤独を抱えて苦しんでいる人たちに出会う。そして偶然一緒になったルームメイトのある悩みを解決したことがきっかけで、「自分のやりたいことはこれだ!」と目の前が開け、「これからは人を助けること、人を癒やすことを仕事にしたい」と医者になることを決めた。実在のパッチさんはそのときのことを振り返って、「人を助けることで生まれて初めて自分の悩みを忘れた」と本に書いている。
自分の内側ばかり見つめていた人が、自分の周りの人のことばかりを考えるようになった。死ぬことばかり考えていた人が、発想を180度転換して人を助けるために猛烈に生きるようになった。その姿を、ロビン・ウィリアムズがユーモアたっぷりに全力で演じていた。
こんな面白い人が世界にはいるんだ。映画を観終わったあと、私はパッチ・アダムスさんのことをもっと知りたくなって、邦訳されている彼の本を二冊買って読みふけった。
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今年の夏は悲しいことがあった。役者仲間のH君が自分の命を絶ったのだ。
その知らせを聞いたとき、しばらく言葉が出て来なかった。スーパーからの帰りでふらふらと道を歩き、友人宅まで戻ってきた。クロマルの背中をさすりながら涙があふれた。
「なぜ?」という問いにはきっと無数に答えがある。死を選んだ理由は本人にしかわからない。もしかしたら、本人にさえわからなかったかもしれない。ただ、その人がいなくなって初めて、自分がどういうところでその人と繋がっていたのかがわかる。H君とはしょっちゅう連絡をとり合うわけではなかったけれど、居るだけで「私も頑張ろう」と励まされる仲間の一人だったのだ。
いつごろからか、“死”のことが頭から離れなくなった。
たとえば、誰のことも知らない街を一人で歩いていて、家族や恋人たちとすれ違うとき。たとえば、夜の交差点でふと月を見上げて百年後のことを思うとき。たとえば、芝居が終わってまた日常に戻っていくとき……。私は、自分の身体が透明になったように感じることがあった。「なんで自分は存在しているんだろう?」そう思うと、果てしない虚しさの前に足がすくんだ。
私はもういっそのこと死んだところから始めたかった。自分はもう死んだんだから怖いものはない。何だって出来る。存在云々について不安に思うこともない。そう思いたかった。誰にも言わずにいつからか、「私の人生は三十七歳で終わる」と勝手に決めて信じ込んだ。何歳でも良かったのだけど、とにかくタイムリミットを決めることで「それまでは無我夢中で生きよう」と思いたかったのだ。
でも、三十八歳の誕生日はちゃんと来た(だからいまこうして文章を書いているんだけど)。その日の朝、こんな夢を見た。
夢の中で、私はミイラのように一本の枯れた木になって立っている。そこへ母らしき人がやって来て、後ろから優しく抱きしめられた。するとカラカラに干涸びていた身体の中から、透明な水がこんこんと沸き上がってきた。その水はいつまでもいつまでも溢れつづけた。そこで目が覚めて、「ああ、私、生きていくんだ」と思った。
これまで、リアルに“死”を想像することは、今日という日を懸命に“生きる”ための原動力だった。でも、いま、私には確信がない。本当に“死”をモチベーションにしたままで良いんだろうか。本当に怖かったのは自分の死じゃなくて、自分以外の人の死だったんじゃないか。大好きな家族や仲間たちがだんだんいなくなって、最後に一人で取り残されることだったんじゃないか。
この夏、少しでも笑いたくてロビン・ウィリアムズの作品を手に取った。でも、いま観ると、ロビン・ウィリアムズの笑顔の後ろには人生の悲しさや切なさが滲んで見え、彼のコミカルな芝居に笑いながらも涙がこぼれてしまう。
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映画『パッチ・アダムス』には“死”を間近に控えた人たち、回復する人たち、ケアする人たち、看取る人たちが沢山出てくる。誰もがいつかは死ぬ。自分も、家族も、友人も。百年後までこの地球上に残っている人はいない。
人は死ぬ。それなら何をやっても無意味だと思うのか。
人は死ぬ。それなら生きている間に少しでも誰かのために生きようと思うのか。
“死”という事実は一つだけど、その捉え方によって世界は全く違うものになってくる。パッチ・アダムスさんはこの両方を極端に生きた人だ。
「ぼくは毎日を喜びで満たすことに決めた」と言うパッチさんは、かつて自分のすべてを捨てようとしたからこそ、180度の意識の転換ができたのかもしれない。もうちっぽけな自分は死んだ。さあ、今度は周りの人を笑顔にするために自分を全部捧げよう、そんなふうに思えたのかもしれない。「この世で一番ひどい苦しみは孤独であり、唯一自分の苦痛を和らげるのは人に尽くすことだ」と気づいた彼の人生後半のモチベーションは、“目の前の人を喜ばすこと”になったのだ。
とにかく、若かりしころのパッチ・アダムスさんが居直って人生を再スタートしてくれたお陰で、私は2020年の夏に彼の映画と本に出会い、勇気づけられることになった。彼が撒いた見えない種は、時間と空間を超えて、いま私の心に届いた。
「この無限に広がる宇宙の中で、地球上の一人の人間に起こることなど、取るに足りないものである。だから、これからユーモアを身につけたいと思う人は、どんなにつらいことがあっても、全宇宙から見れば取るに足りないことと気楽に構えて、つらいなかにも楽しめるものを見つけるようにしよう」
これは、パッチさんの本の中で私が一番好きな言葉だ。こんなふうにいつか「自分の悩みなんて宇宙に比べたらチリのようなものよ」と言って笑えるようになりたい。
ふと隣りで寝ているクロマルに目をやる。そういえば、猫は人間みたいに「無力だニャア」なんて落ち込んだりしないんだろうな。ただそこに居るだけで癒やしになるのだからすごい。これから私はクロマルのことを「師匠」と呼ぶことにした。
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