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水野仁輔の旅と映画をめぐる話 vol.21

そこに到達するまでの旅が心に残る。/『アルピニスト』

水野仁輔の旅と映画をめぐる話
カレーの全容を解明するため世界を旅している水野仁輔さんが、これまでの旅の経験を重ね合わせながら、映画の風景を巡ります。あなたは今、どこへ出かけ、どんな風を感じたいですか?
カレー研究家
水野仁輔
Jinsuke Mizuno
AIR SPICE代表。1999年以来、カレー専門の出張料理人として全国各地で活動。「カレーの教科書」(NHK出版)、「わたしだけのおいしいカレーを作るために」(PIE INTERNATIONAL)など、カレーに関する著書は60冊以上。カレーを求めて世界各国への旅を続けている。現在は、本格カレーのレシピつきスパイスセットを定期頒布するサービス「AIR SPICE」を運営中

タイと『アルピニスト』

カン、カン、コン、カン。石臼で生のスパイスを叩く。タイでクロックと呼ばれるやつだ。腕が疲れると部屋の中を移動する。
10回、20回、30回……。クッション型のトランポリンの上で飛び跳ね、気を紛らす。
カン、コン、カン、カン。まもなくクロックへ戻る。1月に旅したタイを思い出し、イベント用に大量のカレーを仕込んでいる。
40回、50回、60回……。バランスを取るのは難しく、へたくそな盆踊りのようになる。
コン、カン、カン、カン。次にタイを旅するのは来年2月の予定。それまでにどれだけこの石臼に杵を打ち付けるのだろう。
70回、80回、90回……。そろそろ足も疲れてきた。100回に届く直前に異変が起きた。ピキッ! 右ひざに電気が走ったような刺激があり、床によろける。僕は軽く悲鳴を上げた。

映画『アルピニスト』は、知る人ぞ知るロッククライマー兼アルピニストであるマーク・アンドレ・ルクレールを追ったドキュメンタリー。数々の偉業を成し遂げているのに、世界のほんの一握りの人しか騒いでいない。興味を持った監督がマークを訪ねたとき、彼は仲間とトランポリンに興じていた。
クライミングの世界を何一つ知らない僕は、右ひざに違和感を覚えたまま憧れの目をマークに向けた。お調子者にしか見えない若者に錚々たるクライマーが尊敬の目を向けている。世界中の誰も攻略していない絶壁を次々と登る。その存在は、世界的に有名なクライマーが「尊敬を超えている」と称賛するほどだ。監督は、ナレーションで狙いを語る。これは、「彼の追い求める冒険の核心に迫ろうとする映画」だ、と。

マークが断崖絶壁を登るシーンは、手に汗を握るなんてものではない。見ているこっちが極度に緊張し、息をするのを忘れそうになる。心臓の鼓動が高鳴り、ソワソワと落ち着かなくなり、恐ろしくて逃げたくなる。カメラが一気にズームアウトし、巨大な山並みが映し出された。目を凝らして探さなければ見つからないほど小さいマークが、山肌にしがみついている。「いったい、なんで……」と思わず声が漏れ出てしまう。
監督もあるクライマーに尋ねている。
「なぜ無謀なことを?」
クライマーは呆れたように笑いながら静かに答える。
「野暮なこと聞くね」

薬局で買った湿布を貼り、サポーターを装着したが回復の兆しは見えない。翌日、僕は右足を引きずりながら整形外科へ向かった。問診を受け、ベッドにあおむけになり、ひざの周りを指圧してもらう。
「痛みがあったら言ってくださいね」
医師を涙目で見ながら、右ひざに神経を集中させるのだけれど、今度は一向に電気が走らない。痛みは消え去っているのだ。
「あれ? 痛くないです。おかしいな」
レントゲンの結果はいたって正常。骨も軟骨も理科室にある標本のように見事な形をしている。病院を後にすると、驚いたことにスタスタと道を歩ける自分がいた。え? ゴッドハンド!? 僕はおおいに混乱した。

人類によるクライミングという山の攻略は、長い歴史の中でスタイルを変えてきた。道具を駆使した人工登攀から始まり、最低限の装備で岩を傷つけずに登る“フリークライミング”が生まれた。その極致が“フリーソロ”である。手足だけを頼りに大岩壁を登る単独登攀。危険極まりなく、滑落死も少なくない。
カナダで生まれたマークは、子供のころから山に登った。社会に適合できず、ADHDと診断され、学校をやめた。「自由に冒険しなさい」とマークを育てた母親の考え方が素晴らしい。
「母は自分の願望を押しつけず、僕にやりたいことを見つけさせてくれた」
高校卒業後にクライミングの名所、スコーミッシュへ移住した。まもなく彼は圧倒的な頭角を現すこととなるのだが、常に穏やかでひょうひょうとしている。
「岩に登るのは限界に挑戦するのが目的ではない。緊張感やスリルは求めていないよ。単にもっと気軽な娯楽みたいなものかな」
山や大自然を攻略するよりも、溶け込み一体化する喜びを見出しているかのようだ。“彼の追い求める冒険の核心”が垣間見えるような気がした。

一度は完治したかに見えた僕の右ひざだが、階段を上り下りすると少し傷む。筋肉の張りをほぐすと楽になる。トランポリンがキッカケで自分の体と向き合うことになるとは思ってもみなかった。そんな折、関東に大型の台風が接近した。夜中に目が覚めるとズキズキとひざが痛む。翌朝、事態は急変していた。ベッドから起き上がるのもつらいほど痛むのだ。
そういえば、「雨が降ると古傷が痛む」とか「気圧のせいで体調が優れない」とか、そんなセリフを聞いたことがあったっけ。マークには笑われそうだけれど、僕は僕で平穏無事な日常の中に自然とわが身とのささやかな関連性を見出していたのである。

「あちこち完登しているのに全く知られていない」
「彼は貪欲なクライマーだが名声には興味がない」
名だたるクライマーがコメントするように、マークは現代人とはかけ離れた感覚で生きている。メディアに取り上げられることを嫌い、SNSでも偉業を発表してこなかった。
極めつけのエピソードがある。カナディアンロッキーで最高峰のロブソン山を単独登攀したときのことだ。彼は撮影クルーから身を隠し、偉業を成し遂げた。なぜ連絡してくれなかったのか、と詰め寄る監督にマークは答える。
「単独初挑戦の同行は許していない。誰かがいたら単独にはならないだろ? 人がいると全然違うものになる。見ているだけでもね。それは僕が求める冒険とは全く違うものだ。完全に1人でやりたい」

僕は、マークへ強い親近感を抱き、自分の活動を重ね始めていた。いや、親近感というよりも「いつかは自分もこうありたい」という憧れに近いものだろうか。
ここ7~8年ほど、僕はメディアの取材やSNSをできるだけ遠ざけている。「完全に1人でやりたい」とまでは割り切れないが、邪念なくカレーと向き合いたい。タイを旅することだって、誰かに頼まれたわけでも仕事があるわけでもない。ただ単にそこに探りたいものがあるからだ。
マークの元にはこんな言葉がよく届く。「あんな危険なことはやめるべきだ」。マークはそれには答えることなく、ただこう言う。
「でもたぶん僕はあらゆる点でものの見方が人と違うんだろうね」
誰もが夢見る場所、パタゴニアのトーレ・エガーの単独登攀に成功したあとの言葉が、激しく胸に突き刺さった。
「達成したこと自体が人生を変えるわけじゃない。そこに到達するまでの旅が心に残る。それが一番の収穫だね」

映画の終わりに監督は言う。
「マークは素晴らしい人生を歩んだ。自分の夢を追い求めた」
僕の感じ方とは少しだけニュアンスが違うような気がした。彼は“自分の夢”ではなく“自分の問い”と向き合ったんじゃないか。彼なりの核心に迫るために山に登っていたのではないだろうか。
そう思ったのは、母親の言葉の方がしっくりきたからだ。
「皆好きなように生きたいし、自由に冒険したいけど、思いとどまる。マークはそこが人と違った。自分は何がしたいのかを追求した。もし限界に思えることを超えられたり、恐怖に打ち勝てたら、何をしたいのか?」
自分の中にはっきりとした問いを持てることは、幸せなのかもしれない。それを誰に構うこともなく探求できる勇気と行動力が財産なんだ、とマークに教えられたような気がした。だったら僕がタイを旅することだって。右ひざをさすりながら、もっと存分に突き進もうと改めて思った。

BACK NUMBER
FEATURED FILM
監督:ピーター・モーティマー、ニック・ローゼン
出演:マーク・アンドレ・ルクレール、ブレット・ハリントン、アレックス・オノルド
命綱無し、たった独り 前人未到の挑戦
挑戦するすべての人に贈る、知られざる究極のクライマーを追ったドキュメンタリー
PROFILE
カレー研究家
水野仁輔
Jinsuke Mizuno
AIR SPICE代表。1999年以来、カレー専門の出張料理人として全国各地で活動。「カレーの教科書」(NHK出版)、「わたしだけのおいしいカレーを作るために」(PIE INTERNATIONAL)など、カレーに関する著書は60冊以上。カレーを求めて世界各国への旅を続けている。現在は、本格カレーのレシピつきスパイスセットを定期頒布するサービス「AIR SPICE」を運営中
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