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水野仁輔の旅と映画をめぐる話 vol.16

気を抜くんじゃないよ、あの男が見張っている。/『世界一美しい本を作る男〜シュタイデルとの旅〜』

水野仁輔の旅と映画をめぐる話
カレーの全容を解明するため世界を旅している水野仁輔(みずの・じんすけ)さんが、これまでの旅の経験を重ね合わせながら、映画の風景を巡ります。あなたは今、どこへ出かけ、どんな風を感じたいですか?
カレー研究家
水野仁輔
Jinsuke Mizuno
AIR SPICE代表。1999年以来、カレー専門の出張料理人として全国各地で活動。「カレーの教科書」(NHK出版)、「わたしだけのおいしいカレーを作るために」(PIE INTERNATIONAL)など、カレーに関する著書は50冊以上。カレーを求めて世界各国への旅を続けている。現在は、本格カレーのレシピつきスパイスセットを定期頒布するサービス「AIR SPICE」を運営中

僕はたまに卓球をする。別に卓球部だったわけじゃないし、特別うまいわけでもない。歳のせいか誰かと競って勝ちたいという気持ちも、勝って嬉しいという気持ちもなくなった。それでも卓球をする理由は、無心になれるからだ。ひたすら来た球を打ち返し、黙々とラリーを続ける。なんなら相手は壁でもいいくらいだ。
よく走る友人がランナーズハイも似たようなものだと教えてくれたことがあった。何も考えない状態。昼ご飯は何にしようかな、とか、あの原稿を書かなきゃな、とか、玉ねぎを素揚げしたらどんなカレーになるんだろう、とか、そういうことを考えなくてすむ。それは瞑想みたいなものかもしれない。卓球瞑想。気に入っている。

この人にはそういう時間は必要ないのかもしれないなぁ、と思った。映画『世界一美しい本を作る男』のシュタイデル氏である。アメリカを代表する写真家、ロバート・フランクをはじめ、ノーベル賞作家、ギュンター・グラス、シャネルのデザイナー、カール・ラガーフェルドなど様々な人たちから信頼され、本づくりを任されている。
休む暇なく働き、世界中を飛び回る。「旅は好きじゃないが」と言いつつ、「会って打合せをするのが一番だ」と旅を重ねる。プライベートジェットの機内でさえ、ICレコーダーを4つも5つも並べて机に向かう。仕事に没頭し、赤ワインの注がれたグラスの真横に原稿の束をドン。ワインがこぼれたらどうすんの!? と観ているだけでハラハラしてしまう僕は全くの凡人だ。

水野仁輔の旅と映画をめぐる話 vol.16

書籍が好きで、依頼をいただく商業出版に飽き足らず、「イートミー出版」という自費出版レーベルを立ち上げてまで本づくりを続ける僕にとって、ゲルハルト・シュタイデルという男とシュタイデル社という会社の存在は憧れである。写真家のロバート・アダムスの自宅で写真の印刷技術について語り合う。
「J・シャーカフスキーが写真をビリヤードにたとえて話したことと同じ。すべてエッジで跳ね返って影響し合う」
「有名な鉄則にも例外がある。L・フリードランダーがかつてこう言った。“写真を作っている時、いい感じにならない時は暗めに印刷しろ”」
「まったく逆にすべきだ。そんなことをしたら悪夢だよ。彼に意見しないと。彼の他の言葉は名言ばかりなのに、これは…」
些細な会話でさえ思わず巻き戻し、繰り返し観てしまう。

去年の秋に僕は、“カレーの人”を引退し、“写真家”になった。ひょんなことから、としか説明がつかない。「この素晴らしき世界を自分自身のフィルターを通して記録する」ことに急激に興味を持ってしまった結果である。早速、過去の旅をまとめる形で写真集を3冊制作した。シリーズタイトルは『CURRY JOURNEY』。駆け出しの写真家にしては派手なデビューである。
学生時代、写真部に所属していた時には暗室でのプリント作業をよくしていたが、さすがに写真集を作る機会はなかった。編集者やデザイナーと写真を選び、編集とデザインをし、紙を選んで印刷する。そんな作業をした直後だったから、映画『世界一美しい本を作る男』のシュタイデル氏のことがまぶしく見える。

シュタイデル社の本づくりを見ていると、神々しい作業が連続しているような印象を受ける。紙の束をパラパラとしたときの滑らかな動きや大きな印刷機がひたすら稼働する音、製本された本の角を揃える指先、出力見本を覗き込む横顔、紙に包まれたサンプルがスーツケースにおさめられる様、紙の匂いを嗅ぐ仕草。不要になった印刷用紙をごみ箱に捨てる光景に至るまで、もうたまらない。現れるすべてのシーンが愛おしい。
シュタイデル氏の言動にも目が離せない。ジョエル・スタンフェルドの写真集『i DUBAI』のサイズを決めるときの熱っぽい提案やサブタイトルを却下するハッキリした態度。「中間色のことはいったん忘れて、できる限りのことをしよう」と熱く話すシュタイデルに対し、「うまく忘れられるかな」と不安そうなジョエル。誰と本を作るときにもまるで自分の作品であるかのように取り組んでいる。どちらが著者なのかわからないくらいだ。

僕が著者として本を作るときは、「自分の意見はハッキリ言うが、最終的には専門家に判断を預ける」と決めている。仲間を信用し、敬意を払う意味もあるけれど、何よりそうするほうがいいものができると信じているからだ。共に作るということの喜びもそこにある。納得がいくまでやり取りし、印刷会社から処女作となる写真集が納品された。段ボールにカッターを入れるときのドキドキは何度味わっても変わらない。

僕はたまに卓球をする。そういえば、旅先のインドでもそうだった。オールドデリーで宿泊した中級ホテルの屋上に卓球台があった。仲間と時間を忘れて打ち込んだのが懐かしい。いつでも無心になれるはずの卓球なのに、今回ばかりはくよくよした気持ちが邪魔をして卓球台を前に立ち尽くしている自分がいた。理由は、届いた写真集が期待していたほどの完成度ではなかったからだ。 写真自体に満足していないのはわかっている。何せ駆け出しの写真家なのだから、これからたくさん撮ってもっと巧くなるしかない。編集もデザインも最善を尽くした。でも、印刷にもうひとつ納得がいかなかった。全体的に想像よりもぼんやりと眠たい印象である。印刷会社の問題ではない。選んだ紙は最善だっただろうか。色校正をもう少し念入りにした方がよかったのかもしれない。もしや写真のDATA容量が足りないのかな。もっとできることがあったんじゃないだろうか。
悔やみ始めると際限がない。気づけば卓球のボールが僕の横をすり抜けていった。無心になるどころか、来た球に手を伸ばすことさえできない事態にはさすがに驚いた。こんな本が仕上がってきたら、シュタイデル氏ならどうするだろうか。考えても無駄なことまで頭に浮かんでしまう。くよくよしたまま2日ほどが経過したとき、おなじく写真集を受け取った編集者からメールが来た。

「表紙の手触りもよくて、写真以外には数字のみという、意味深だけど異国情緒漂う素敵な装丁ですね! ぱらぱらとページをめくるとスパイスの香りがわきたつような旅の湿度なんかも感じられて、ページ数以上に濃い本になったなぁと思っています」

一瞬、目を疑うような内容だった。某旅雑誌の編集長をしている人だから、おびただしい量の旅写真を見てきているはずだ。その人がなんとも前向きな感想を抱いている。驚くと同時に考えさせられた。自分の手掛けた作品に誇りを持つ。本来、モノづくりはそうあるべきなんじゃないのか。僕は「眠たい」と後悔し、彼女は「旅の湿度がある」と称える。この差は僕の中で埋めていかなければいけないんじゃないのか。その昔、親しくさせていただいているシェフから聞いた言葉を思い出した。

「自分が自分のカレーの一番のファンでいることが大事。その一位の座をお客さんに奪われたら、あとはもう大丈夫」

どうして僕はいつも自分の粗探しばかりしてしまうのだろう。この映画をいいタイミングで観ることができてよかった。確固たる美意識を持って妥協せず本づくりに全力を尽くす男の姿を目に焼き付けることができた。全身全霊で制作に没頭する日々を送るあの男に感服した。自分もそうありたい。
まもなく写真集の次作に取り掛かるつもりだ。彼の鋭い視線に今後の自分を監視させることにしよう。気を抜くんじゃないよ、あのシュタイデル氏が見張っている、なあんてね。精進あるのみだ。さて、卓球でもしに行こうかな。

水野仁輔の旅と映画をめぐる話 vol.16
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FEATURED FILM
「世界一美しい本を作る」と称されるドイツの小さな出版社シュタイデル。経営者ゲルハルト・シュタイデルは、印刷機から出てくる一枚一枚の写真や原稿をチェックし"本"作りに情熱を注ぐ。今や有名写真家が作品を出版する為に何年も待ち、扱うのはノーベル賞作家の新作からシャネルのカタログまでと幅広く、世界中にコレクターがいるシュタイデル社の"本"。自らアーティスト達と綿密な打合せを繰り返し、収録作品、使用する紙、インクの選定まで徹底的にこだわり"本"自体を作品へと昇華させていく。彼の妥協なき本作りの姿勢は、効率重視の出版業界においてユニークなビジネスモデルとしても注目されている。"本"と"芸術"、そして"仕事"への愛情に満ちたシュタイデルの世界へようこそ。
PROFILE
カレー研究家
水野仁輔
Jinsuke Mizuno
AIR SPICE代表。1999年以来、カレー専門の出張料理人として全国各地で活動。「カレーの教科書」(NHK出版)、「わたしだけのおいしいカレーを作るために」(PIE INTERNATIONAL)など、カレーに関する著書は50冊以上。カレーを求めて世界各国への旅を続けている。現在は、本格カレーのレシピつきスパイスセットを定期頒布するサービス「AIR SPICE」を運営中
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