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水野仁輔の旅と映画をめぐる話 vol.22

なぜ絵を描くのか? なぜなのか?/『世界で一番ゴッホを描いた男』

水野仁輔の旅と映画をめぐる話
カレーの全容を解明するため世界を旅している水野仁輔さんが、これまでの旅の経験を重ね合わせながら、映画の風景を巡ります。あなたは今、どこへ出かけ、どんな風を感じたいですか?
カレー研究家
水野仁輔
Jinsuke Mizuno
AIR SPICE代表。1999年以来、カレー専門の出張料理人として全国各地で活動。「カレーの教科書」(NHK出版)、「わたしだけのおいしいカレーを作るために」(PIE INTERNATIONAL)など、カレーに関する著書は60冊以上。カレーを求めて世界各国への旅を続けている。現在は、本格カレーのレシピつきスパイスセットを定期頒布するサービス「AIR SPICE」を運営中

台湾と『世界で一番ゴッホを描いた男』

両手のひらの指を優しく丸めて三日月形を作り、ろくろを回す陶芸家のような格好をする。テーブルの上には平たい大きなざるが準備されていて、ほどよく発酵した茶葉に手が触れた。
散らばった葉をかき集めて小山を作り、「いい子、いい子」と子犬を撫でるように丸め、それから手のひらをざるに押し付けながら時計回りに何周かさせる。繰り返していくうちに茶葉はしっとりと湿気を帯び、ふんわりと若い香りを漂わせた。

年明け早々、僕は台湾の猫空という場所にある茶園を訪れて、茶の揉捻を体験した。かつてインドのダージリンへ行ったとき以来、二度目である。4人組5グループに分かれ、茶葉を揉み揉み。先生が各テーブルを見て回るのだが、僕の組は少し離れた所から一瞥しただけですぐに去ってしまう。対して他のテーブルにはやたらと熱心に指導している。
些細な嫉妬心と対抗意識が宿り、揉み揉みする手が強まった。ひとしきり作業が終わると茶葉をざるから乾燥用の網に移す。さっきの先生がこちらの茶葉を覗き込み、「キレイ」とだけひと言。腑に落ちない。茶葉は乾燥機に吸い込まれていった。

技術の向上は主に鍛錬によって成せるものだと思う。センスや才能というものは自分には理解し難い。どのようにどれだけ励んだかによって備わる技術に差が出る。どんなことに対してもそれを磨けることなら磨きたい。
映画『世界で一番ゴッホを描いた男』の主人公・趙小勇(チャオ・シャオヨン)は、20年以上に渡ってゴッホを描き続けてきた。原画を見たことはなく、写真を参考にひたすら模写し続け、完成した絵をオランダの画商に売って生計を立てている。

あるとき、地元に帰った彼はタクシーの運転手に仕事を聞かれ、ゴッホを描いていると答えた。
「ニセモノづくりってこと?」
「複製画だよ」
贋作だとは思っていない。本人なりのプライドがありそうだ。ところが、なけなしのお金をはたいてオランダを訪れたとき、悲劇が待っていた。立派な画廊に飾られていると思っていた自分の絵が、街角のお土産物屋に並んでいたのだ。その景色を目の当たりにしたときの彼の動揺っぷりにこっちがつらくなってしまった。
信じていたものが壊れると人はこれほどまでに狼狽するものなのか。この映画の中で最も忘れられないシーンである。

ホンモノかニセモノかの判断は、その世界を知る人には易しく、知らない人には難解だ。台湾茶も同じ。いい茶葉とそうでもない茶葉を見分けるには経験値が必要となる。
自分で揉んだ茶葉が乾燥されている間、5種類のお茶をテイスティングした。僕は僕なりにそれらが普段飲んでいるお茶よりはるかにおいしいことはわかる。それぞれのお茶の違いも把握できた。ただ先生はこの5杯のお茶からさらに多くのことを感じ取るのだろう。それが羨ましい。

さっき揉んだ茶葉がテーブルに取り出された。水分が抜けた茶葉はクルクルとねじられた状態で鈍く緑色に輝いている。他のグループの茶葉を見て回ると、それぞれに個性的な様相でどれひとつ同じものはない。同じ空間で短い時間に単純な作業をいただけなのに。
先生が僕らの茶葉を指さして、そっけない調子で言った。
「イチバン、キレイ」
そうか。さっき先生が僕らのテーブルを放置した理由がわかった。レクチャーの必要がないことをたった一瞥で判断したのだ。先生にはあの時点で茶葉の仕上がりが見えていたことになる。僕は羨望の眼差しを向けた。

ゴッホの複製画は、1点450元(9000円)で買い取られ、500ユーロ(78000円)で販売されていた。落胆の色を隠せないチャオは、それでもオーナーと再会を果たし、挨拶代わりに持参した新しい絵を渡す。無邪気に喜ぶオーナーは、軽いジョークを飛ばした。
「内緒の話だが、今晩、これを美術館の原画とすり替える。絶対誰にもバレないよ」
何気ないセリフが傷口に塩を塗ることになっただろう。チャオはその夜、ホテルの部屋で吐くまでやけ酒を飲んだ。切ないシーンだ。共に旅をした仲間とのやり取りで、自分たちを慰める。
「(俺たちは)生活のために描いている」
「ゴッホも同じだ。でも売れず…絵が売れるのを切望していた」

ゴッホも自分たちも変わらないはずじゃないか。そう考えようとするのが無謀な行為であることはチャオ自身がいちばんわかっているようだった。あまりに自分の作品と違い過ぎる原画を美術館で見てしまったからだ。世界でいちばんゴッホを描いてもゴッホ自身には遠く及ばない。皮肉にも描き続けてきたからこそ、他の誰よりも理解してしまう。

からりと乾いた“イチバンキレイ”な茶葉を持ち帰り用の袋に詰めながら、妙なことを考えた。あの先生はなぜこの茶園で働いているんだろうか。仕事だから? お金がもらえるから? お茶と向き合えるから? それとも茶葉の魅力を伝えられるから?
もしそうだとしたら、贋作を原画だと思い込んで喜ぶような、自分で揉んだ茶葉でも十分うまいと満足してしまうようなレベルの僕が生徒でも楽しいんだろうか? つまんでいた茶葉のかけらを口に放り込む。ほんのり渋くて苦い味がした。

チャオと仲間の会話は混迷を極めている。
「物質は人の欲望を一時満たすだけ、魂は人を動かし続ける」
自分たちがゴッホを描く行為は、物質的だと自戒する。帰国後に他の仲間たちと酒を飲むチャオは、自分なりの結論を打ち明けた。
「結局、俺たちは職人だ。職人が画家や芸術家になるのは絶対的に難しいと思うんだ」
さあ、どうする? どうするの? その後の展開が気になる僕の目に映った映像は、チャオの実家の景色だった。中庭のような場所にチャオの祖母がポツンと座っている。その瞬間、僕は我がごとのように喜んだ。画面が切り替わるとカンバスの前に立つチャオ。彼は自分のいちばん大切にしている存在を描くと決めたようだ。芸術家への第一歩を踏み出したチャオを伝え、映画は幕を閉じた。

職人だって芸術家だって、どちらも素晴らしい仕事だ。チャオが抱えているのは贅沢な悩みかもしれない。それでもオランダでの彼が絶望的な姿に見えたのは、信じていたものに裏切られた結末ゆえだ。素敵な画廊ではなくお土産物屋だった事実に自分の価値の低さと想像力の足りなさを思い知らされた。自責の念に駆られたに違いない。
ただ技術や実力の差以上にゴッホとチャオとを隔てているものがあると感じた。それは、「なぜ描くのか?」という根源的な部分だ。依頼があったから描き、お金がもらえるから描くのが職人のチャオであり、描きたいから描く、描くことを止められないのが画家のゴッホなんじゃないだろうか。

誰にも頼まれていないけれど、誰かが望んでいるかもしれないことに全力を尽くす。

僕がカレーの活動方針に掲げているものである。頼まれていないことを好き好んでせっせと続け、その先に望んでくれる人がたった一人でもいることがわかった時点で浮かばれる。僕は僕なりに燃費のいい幸せを手にしてきた。
チャオがいまどこで何をしているのかは知らない。クライアントがいる限り、生計を立てるために複製画は描いているだろう。職人としての幸せは、クライアントを増やすか、1点450元(9000円)の買取価格を上げるかすれば手にできるはずだ。
その上で、勝手ながら、誰にも頼まれていない創作活動も続けてくれていたらいいなと思った。ゴッホと同じくらい祖母を描き続けるチャオの姿もいつか見てみたい。

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