そんな自分にとって特別な、そして誰かに語りたい映画体験記。
時が経ち、どれだけ記憶があせようとも、忘れたくない。忘れられない。そんな思い出はありますか?
数年前、立て続けに大切な人を亡くしました。
そのうちの一人は、尊敬する祖母でした。
聡明で、指先が器用で、いつも毅然としており、私にとっては女性の鑑、羅針盤のような存在でした。
祖母は、父の死後、認知症になりました。祖父が亡くなって数年後に自分の息子が亡くなったので、相当のダメージだったのだと思います。同じことを繰り返し聞く、食事したことを忘れる、お金を盗まれたと騒ぐ、突然怒り始めるなどと、祖母は日に日に壊れていき、あらゆることを忘れていき、ついに、老人ホームのお世話になることになりました。
ホームへ出発する日の朝、孫の私たちは、一人ずつ祖母に呼ばれました。祖母に手渡されたのは、たくさんのアルバムと想い出の品。そこには、幼い日の私の写真と、祖母が書いてくれた私の命名書がはさまれていました。祖母は、「あらゆること」を忘れていましたが、私を、そして家族や大切な人たちのことを、まだ忘れていなかったのです。
そんな祖母がまだ元気だったころ、私にある秘密を教えてくれたことがあります。
祖母は、ある日、私を呼び出し、「アレキサンドライト」という宝石の指輪を見つけたから、それを買いたい、自分が死んだらもらってほしいから一緒に見てほしいのだ、と言いました。
普段贅沢をしない祖母が珍しいと思い、私は指輪をしないし、私に買ってくれるつもりならいらないよと伝えると、でも、どうしてもその指輪を買いたいと言うのです。どうしてそんなに欲しいのと聞くと、祖母は頬を赤らめながら、こう話を続けました。
祖父と結婚する前のこと。祖母には婚約者がいたそうです。そして、戦争から生きて帰ってきたら結婚しようと、彼から贈られたのがアレキの指輪だったと。ところがその彼は、飛行機での訓練中に事故で亡くなってしまった。その後、職業軍人だった祖父と結婚してからも、しばらくその指輪を大切にしていたけれど、戦況が悪化して、供出(※)に出してしまった。それはロシア産のアレキで、それはそれは美しい、綺麗な石だった…と。
あの指輪を手放してしまったことが彼に申し訳なく、今でも酷く後悔しているのだと言うのです。もったいない、どうして石だけ取っておかなかったの?という私の愚問に対しては、非国民扱いされるのは怖かった。そういう時代ではなかったのだと。
そして、「けれど、自分はあの人のことを忘れずにいてあげたいのだ、私だけでも、憶えていてあげたいのだ」
…とまるで自分に言い聞かせるように、そうつぶやきました。
その話を祖母から聞いたのは、これが初めてでした。きっと、祖父が亡くなるまでずっと、祖母の心の中に封印してきた出来事だったのだろうと思います。
私たちは、時を重ね、歳を取るとともに、様々なことが想い出せなくなっていきます。生きてきた記憶を失い、大切な人たちの名前を忘れ、最後には自分が何者かさえ想い出せなくなる…。それは生きている限り、誰しも避けられない残酷な現実です。
しかし、もし私やあなたが大切なことを忘れてしまっても、その思い出はなかったことにはなりません。そのことを教えてくれた映画が『43年後のアイ・ラブ・ユー』(原題:Remember me)です。
物語は、妻に先立たれた男性がある日、かつての恋人が高齢者施設に入居したのを偶然知るところから始まります。それは彼が、生涯で一番愛した女性にして、決して結ばれることのなかった女性だったのです。
なんと彼は、彼女に会いたい一心で、一世一代の賭けに出ます。親友の助けを得、自分も彼女と同じアルツハイマーのふりをして、同じホームに入所するのです! ところが、そうまでした彼の期待に反し、思うように心が通わぬ日々が続きます。
“大切な人と共に分かち合い、過ごした時間は、忘れられるものではない。”
“願いはただ一つ。彼女のそばにいたいんだ。”
そんな二人に転機が訪れます。
何もかも忘れているように見えた彼女でしたが、ある言葉をきっかけに、当時の記憶が呼び覚まされていくのです。女優だった彼女の記憶を呼び覚ましたのは、舞台で演じた台詞でした。
星の燃ゆるを 太陽の巡りを疑えども
真実が偽りと疑えども
わが愛を疑うなかれ
(シェイクスピア『ハムレット』)
祖母には、忘れえぬ人がいた。少しずつ、記憶が薄れゆく我が身を自覚していた祖母は、身の回りを整理する一方で、大切な記憶を失うことを怖れたのでしょう。その記憶をとどめておくために、失った指輪を取り戻そうとした。そして、指に光るその石を見て、その人を忘れまいとした。
もし、あなたが記憶を失って、大切なことを忘れてしまっても、大丈夫。
また、想い出せばよい。私が、あなたを憶えているから。
記憶の底にしまい込んだ、大切な想い出や忘れられない人。
誰しも、そんな宝物が必ずあるものだと思います。
たとえ、あらゆることを忘れてしまっても、決して、その想い出がなかったことにはならない。なぜなら、それは今もあなたの一部となって、確かに存在しているのだから…。
この映画は、少女のようにはにかんだ、在りし日の祖母を想い出させてくれました。祖母の胸の奥深くに刻まれていた記憶は、年老いても決して色あせることはなく、若かりし日のままでした。そして、想い出のバトンは私に受け継がれ、決して、消え失せてはいないのです。
※:国や政府の要請に応じて金品などを差し出すこと。
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- 眠れない夜に私を救ってくれたのは、70年前の名作ミュージカル映画だった 『雨に唄えば』
- ままならない家族への感情……それでも確かに愛してる。『シング・ストリート 未来へのうた』で描く私の夢
- 嘘の中の紛れもない「リアル」。 いつまでも彼の踊る姿を観たいと思った 『リトル・ダンサー』
- 「どんな自分も愛してあげよう」 肩の力を抜くことができた『HOMESTAY(ホームステイ)』
- 映画って、こんなに自由でいいんだ。そんなことを気づかせてくれた『はなればなれに』
- 日々の選択を、愛ある方へ。自分を大切にするための映画『パパが遺した物語』
- 大丈夫。あなたが私を忘れても、私があなたを思い出すから 『43年後のアイ・ラブ・ユー』
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- 幸せになるには、まず「幸せに気づく」こと。こんな2020年を希望にかえて締めくくる『食堂かたつむり』
- 仕事も休めばいい、恋もなんとだってなる。人生の舵は、自分が握っているのだ『嗤う分身』
- 号泣したワンシーンが、思いを届けるきっかけになる『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』
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- 東京という大きな「生き物」が、 人生の岐路に立つ人を静かにつつんでくれる『珈琲時光』
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