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映画を観た日のアレコレ No.37

2021年3月22日
上出遼平の映画日記

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映画を観た日のアレコレ
なかなか思うように外に出かけられない今、どんな風に1日を過ごしていますか? 映画を観ていますか?
何を食べ、何を思い、どんな映画を観たのか。
誰かの“映画を観た一日”を覗いてみたら、どんな風景が見えるでしょう?
日常の中に溶け込む、映画のある風景を映し出す連載「映画を観た日のアレコレ」。
37回目は、テレビ東京 プロデューサー・ディレクター 上出遼平さんの映画日記です。
日記の持ち主
テレビプロデューサー・ディレクター
上出遼平
Ryohei Kamide
1989年東京生まれ
テレビ東京制作局プロデューサー・ディレクター
番組『ハイパーハードボイルドグルメリポート』の企画演出撮影編集全てを担う
同名の書籍を執筆

2021年3月22日

ああ嫌だ。
本当に嫌な気分だ。
せっかくいつもの中華屋で、いつものチャンタンメン(チャンポンとタンメンを合わせたもの)を食べようというのに、すごく嫌な気分だ。

追いかけてくるのだ。
『ヘレディタリー/継承』が。

朝10時から続いたリモート会議が、夕方4時に終わった。
今日本で手に入りうる最大サイズのタンブラーを並々満たしていた朝の紅茶は、もう一滴も残されていない。一息つこうと湯を沸かし、インスタントのコーヒーを淹れる(濃縮コーヒーを湯で割るだけだから“淹”なんて漢字はちょっと嘘だ)。オーバーヒート気味の脳味噌を一旦停止し、PCを弄る。
これが失敗だった。
いつの間にかNetflixを起動して、“マイリスト”を表示している。
ここには「観なきゃなー(観たいなー)」と思っていたのに、なんとなくタイミングを失して観ていない映画が収められている。

そこにあったのだ。アリ・アスター監督が作り出した完璧な悪夢・・・・・こと『ヘレディタリー/継承』(2018)が。
アリ監督は『ミッドサマー』(2019)で僕に見事なトラウマを植え付けてくれた。舞台となるホルガ村が、僕が撮影に訪れたロシアのカルト教村に酷似していたこともあって、それはそれは強烈な視聴体験となった。徒歩では決してアクセスできない(つまり簡単に脱出できない)山深い立地、村人たちの白装束とあまりにも穏やかな笑顔——。僕を歓待してくれた村人たちの微笑みの裏に、おぞましいしきたりを想像してしまった。(※『ハイパーハードボイルドグルメリポート(#3)』Netflixで配信中』)

『ヘレディタリー』は未見だった。公開時にはさぞ話題になっただろうに、なぜ僕はアクセスしなかったのだろう。タイミング悪く、どこか異国で駆けずり回っていたのだっけと、iPhoneの写真フォルダを開いて合点がいった。あの時僕はひどいことになっていた。その顛末を以下に一息で示す。
大阪で一人ロケを終えたのち、つい羽を伸ばして飲み屋を5軒梯子した末、朝方になってぼったくりバーに引き摺り込まれ、会計時に一悶着あるも(1杯4千円!)なんとか威勢良く店を出たまでは良かったが、千鳥足でホテルに戻ったところでなんとそのぼったくりバーに財布を忘れたことに思い至り、引き返したくても道順を思い出せず諦め、翌日は京都でロケの予定だったため、大阪で暮らしていた幼なじみに移動のための金を普請し(このとき幼なじみは手持ちが千円ぽっきりだったのでその全額を借りた)、なんとか辿り着いた京都で合流した後輩にごっそり金を借りる——という濃縮したクズのような時間を送っていたので、『ヘレディタリー』のことなど知る由もなかったのである。

ああ、『ヘレディタリー』のせいで思い出したくもない記憶を掘り返された。
金も財布も免許証も信頼も全て返ってこないのに、記憶だけが返ってきた。
実に嫌な気分だ。

本当に不愉快な映画だ。
映画館で観ていたらもっと危なかった。
Netflixならいざとなれば様々な方法で逃避が可能だ。
2時間7分の『ヘレディタリー』の間に、僕は計4回iPhoneに逃げた。
「このあと見るべきでないシーンが来るな」と感じたらすかさずTwitterを開いて現世の幼気な諍いで目と心を潤す(とは言っても、音だけで十分戦慄するので注意が必要だ)。

観終わった頃には日が暮れていた。
腹が減っていた。
寝巻きのスウェットに上っ張りをひっかけ、最寄りの中華料理屋へ向かう。
夕闇がいつもより少しだけ重い。
背後の足音に敵意が含まれて聞こえる。
通りの両脇に覆いかぶさるように立つマンションの窓に視線を感じる。
蝋燭なんて揺らめいていたら最悪だ。
しかしチャンタンメンはいつもどおり美味い。
白濁したスープには柔らかな旨味が溶け込んでいて、どっさり盛られたモヤシとニンジンはシャキシャキと楽しく、時折顔を出す豚バラはふわりと甘くて、太い縮れ麺はもっちりと腹を満たしてくれる。
しかし、通りに面した窓にはいつハトが突っ込んでくるかわからない。(※映画参照)
イラン系の店員さんの顔立ちが、ピーターに似て見える。(※映画参照)
そして何より、テーブルに置かれた水のグラスが今にも動き出しそうなのだ。(※映画参照)
ここのチャンタンメンの見せ場は黒々とした大ぶりなキクラゲ。こいつをハフハフと頬張り、勢いよく歯を入れた時の小気味良い“コッ”という音……。この音が、チャーリーの舌打ちとまるきり同じ音なのである。(※映画参照)

ゾッとする。
『ヘレディタリー』は僕からお気に入りのチャンタンメンまで奪おうというのか。
会計を済ませると、いつもの2倍速で歩き、息も絶え絶え(腹もパンパン)に我が家へ帰還する。
この時の安心感たるや。
風呂に入った時の脳が緩むような脱力感たるや。
布団に包まれた時の、あの天地がなくなる浮遊感たるや。

まったくもって。
この手のどぎつい映画っていうのは、観る前の世界と観た後の世界をちょっと変える。
すごいパワーだ。
心に負った傷は、これからしばらく時間をかけて治癒していく。水が滲みたり、風に痛んだり、瘡蓋を剥がしたり、たまに匂いを嗅いだり、そんなふうに傷と付き合っていくのは悪いものじゃない。心の肉体を感じるチャンスだ。

さて、アリ監督の次作はいつだ? それまでに傷をあらかた治しておかねば。

上出遼平の映画日記
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PROFILE
テレビプロデューサー・ディレクター
上出遼平
Ryohei Kamide
1989年東京生まれ
テレビ東京制作局プロデューサー・ディレクター
番組『ハイパーハードボイルドグルメリポート』の企画演出撮影編集全てを担う
同名の書籍を執筆
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